‘98スパルタスロン回顧録 ’98.10.22 塩原
正
海外のレースは、今回で2度目。1度目は丁度5年前に一家で行ったポートランドマラソン。
このときは、シアトルからカナダのビクトリアまで観光し、楽しい思い出となりましたが、今年は結婚20周年にあたり、会社の45歳のチャレンジ&リフレッシュ休暇を利用して妻と二人だけで観光も兼ねて行くことにしました。
そこで選んだのが以前からチャレンジしようと思っていたあの有名なスパルタスロン。ウルトラマラソンを走るものであれば誰でも1度は耳にする、いや、ランナーでなくても“スパルタ教育”の言葉でスパルタは、知っていると思いますが、246kmにも及ぶ難コースと時間制限(36H以内)の厳しさは、さくら道国際ネイチャーラン(250km/36H)よりも勝るもので、完走率も50%にいけばいい方とのこと。
もともとスパルタスロンの始まりは、紀元前492年、ペルシヤの大軍がエーゲ海を渡り、アテネからほど近いマラトンの地に上陸。アテネはスパルタに援軍を求めるため、ひとりの使者を派遣しました。この使者は約250kmの道のりを走り、2日後にはスパルタに到着したといいます。
この伝説にちなんで始まったもので1983年に第1回大会開催、12カ国から47人が出場し、17人が完走しました。
現在では、大分走り易くなり、20数カ国、200人前後が出場するまでになり、2004年のギリ
シャのオリンピックでは、このスパルタスロンが公開競技になるとのことで、益々スパルタスロンの人気が高まってきています。しかし、そのコースの厳しさは変わりません。
結婚20周年の節目を迎え、このレースでどこまで世界に通用するか、まさにチャレンジャーの気持ちで臨みました。そう言う意味では今回のレースは特別なレースであり、絶対完走しなければと言う思いがありました。一応目標タイム及び順位は、30時間以内、10位前後と設定しましたが、この目標がいかに甘かったかを後で思い知らされることになりました。
レース後は、スパルタでの表彰式とパーティー、そしてまた、アテネでも公式の表彰式とパーティーがあリ、これで参加費用が15000円。ホテルから食事まで全て主催者側の負担。何か申し訳ない気がします。その後パリで4泊し観光後、帰国の途につく予定にしました。
結果から申しますと タイム:30時間58分18秒 順位:18位/196人中(申込人数)で目標
には及びませんでしたが、頑張りどころでの2回の嘔吐を考えれば、まあまあの成績ではないか
と思っております。
次頁以降にその模様を報告します。
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〈レース前〉
9/22 11:00関空を立ちパリで1泊し9/23アテネに着いた。
9/22は台風の影響で我々の後の便は欠航になったとのことで、同じ関空から成田→パリ経由でアテネに来る人が新幹線に乗り換えて成田に行ったが間に合わず、大変な目にあったようである。
中には飛行機が遅れたためロンドン経由にしたまでは良かったが、荷物がロンドンで降ろされてしまい結局荷物がアテネに着いたのが9/24の夜中で各エイドに置く着替え、食べ物等が置けず、時差ボケ、睡眠不足も加わり大きなハンディを背負ってのレースとなった人もいた。
気の毒なことにその方は心臓手術を三回もやっているとのことで、無事完走することを祈った。いつもそうだが、絶好調でレースに臨んだためしがない。今回もレース前日、早朝ジョギングをしたが、あまり調子が良くない。
24日の午前中は時間があるので吉越夫妻(夫婦でウルトラを走るこの道の大ベテラン、今回もふたりとも走るとのこと)と岡部氏、佐川氏(さくら道ネイチャーランでの知り合い)で市内見物と買い物に出かけたが、歩き過ぎて腰痛になってしまいレースを前に何とも情けない話である。
レースは、25日7:00スタートの為、24日の17:00までに登録受付と各エイドへの個人荷物の用意を済ませ、17:00より公式説明があった。
ヨーロッパ諸国を中心に参加24ヶ国、総勢196人(参加申込人数、実際はこれより若干少ない)。参加国の中で日本が1番人数が多く48人。次いでフランスの37人。後はギリシャ、ドイツの21人と続く。どういう訳かアジアは日本だけであった。
夫婦での参加は吉越夫妻のほかに沖山夫妻、ラゾン夫妻(スウェーデン)の3組。いずれもすごい人たちで、特にラゾンの奥さん:メアリーはさくら道でも女子トップ、総合でも5位に入るなど優しい顔からはとても想像出来ない。今回はふたりの息子を連れての参加である。
公式説明では、日本のように“何々市長の挨拶” などと言うのはなく、いきなり説明に入り、簡単に終わってくれるのが嬉しい。
準備は全て整いこれで明日のスタートを待つばかりとなった。
〈コース〉
全走行距離245.3km。No.22AS(第22エイドステーション:第一チェックポイント)81.0kmのコリントスの運河までは、海岸線の小刻みなup/downが続き、ボクシングで言うボディーブローのようにジワジワとダメージがくるところである。
そして一つ目の上りは110-115kmのネメア付近で200m上る。暑さもあり見た目より辛い。その後154.1kmのNo.45ASからが、最大の難所“サンガスの山”、10kmで900mほど上る。
最後の2kmは登山並となり、頂上からは息つく間もなく急な下りとなる。
最後の峠は218.6kmのNo.67ASまでの300mの上り。それからスパルタまで一気に700m下る。最後の2kmは,地元の中高生が両脇について伴走してくれ、レオニダス像の足にタッチしてゴールとなる。
この間、74のエイドステーションと15のチェックポイントがある。
up/downだけみると168kmの飛騨ウルトラマラソンの方がきついが、距離が1.5倍ほど長いとその辛さは、倍ほどに感じる。また、この辺りは雨が少なく乾燥しきっており、草木が殆どなくどこを見てもぺんぺん草程度の禿山ばかりである。こういうコースは給水がひとつのポイントとなる。少ないと脱水症状となり、多すぎると胃下垂或るいは嘔吐したりする。いずれにしても今まで走ったウルトラマラソンの中では一番きつそうである。
〈スタート〉
25日朝4:20起床。荷造りとスタート準備をして朝食を済ませる。6:00バスでスタートポイントのアクロポリスに向けて出発。6:20過ぎに到着。空はまだ暗いが星が出ていて雲もなく、今は肌寒いが暑くなる気配。ここまできたら今更ジタバタしても始まらない。幸い今のところ腰痛もない、後は走るのみである。
スタート前は、みんな写真を撮ったり、歌を歌ったりとリラックスして非常に陽気である。とてもこれから250kmも走ると言う雰囲気ではない。果たしてこのうち何人が完走できるのだろうかと考える。当然自分もその中に入らなければならないが、とにかく気負わず初めは抑え気味で行こうと決める。スタートのカウントダウンはみんなで行いゆっくりスタートする。
アクロポリスは高台にあるため1kmほど下る。下りのためゆっくり走っているつもりでも結構速い。それでも先頭グループとはすでに300mほど離れている。通勤時間帯のため大分交通量が増えてきている。警察官がランナーのために交通規制をしてくれる。町が大きくなるとこういう大会のへの関心が薄れるのと同時になかなか宣伝が行き渡らない。行き交う人、バスの乗客らはランナーが通る度に“一体何やっているのだろう”と言う目で見ている。しかし、10kmも走り郊外に出ると応援してくれる人が目立ってくる。ギリシャでは、自動車の排ガス規制をしていない為、市内を抜け出るとホットする。
〈ペースダウン〉
スタートしてから10km過ぎ、50分を切るペース。250kmを走るにしては少々速い。それでも抜いていくランナーがいる。今回は過去の優勝者が3人もいるとのことで全体的にもペースが速い。
車の運転でもそうであるが、一旦スピードを上げるとそのスピードに慣れて、今度スピードを落とそうとしてもなかなか出来ない。ランニングも同様で、後で付けが廻って来るとわかっていても調子がいい時は、なかなかペースを落とせない。
日も大分高くなってきて、丁度真後ろから照りつける感じになってきたが、吉越夫妻のアドバイスのとおりキャップの後ろ側にタオルを半分に切った布を縫い付け、その部分を水で濡らしている為、あまり気にならない。
20km付近では、坂本氏(日本スパルタスロン協会)がチャーターしてくれた応援バスがおり、妻が写真を撮ってくれる。みんなの応援で更に調子に乗る。
この応援バスは、各CP(チェックポイント)の関門制限1時間前ぐらいから待機し、後ろのランナーの応援と回収をする予定とのことで、No.10ASの40.0kmでは、おにぎりのサービスをしてくれ、その後No.22
81kmの第一CPに行くとのこと。関門ぎりぎりのランナーの応援となるとせいぜいここらまでしか会えないだろうと思う。
No.10ASで一口大のおにぎり3個のエネルギー補給をしたのでペースの方は、55kmぐらいまでは相変わらずであった。しかし、エーゲ海の広がる海岸線では、景色はすばらしいがup/downの連続により、徐々にペースが落ちてきてNo.22ASの第一CPでは、両膝外側のうずきとモモのはり、そして腰痛もでてきた。ここで現地ボランティアの若者二人にマッサージをしてもらう。食欲もあまりなく、オジヤ風のものをらったが、2,3口しか食べれず、用意していたウィダーinゼリーを流し込んでNo.22ポイントを後にする。
このポイントで20分ほど費やしてしまった。その間にラゾン夫妻をはじめ数人のランナーに先を越されてしまった。
その後の走りも6分/km弱のペースよりあがらない。もっとも膝に負担をかけないよう摺り足走法に変えた為、スピードも出ないのであるが、まだまだ先は長い!安全策が1番である。
〈エイドステーション〉
さくら道では、エイドに置く私物(着替え、食べ物等)は、せいぜい4ヶ所ぐらいであったが、北海道マラソンのとき、吉越さん宅に泊めて頂いた際、条件によって準備するものがいろいろあるため多めに置くとのことで、そのアドバイスに習って7ヶ所置くことに決めた。
作戦としては、No.31ASの110km地点に投光器(懐中電灯では電池交換が忙しいため、登山用の頭に付けるリチュウム電池用ライトにした。これだと8時間はもつ、うまくいけば交換しなくても済む。)を置き、No.35ASの124kmとNo.52ASの172kmに替えのシューズ。
No.46ASの157km(サンガスの急勾配の1つ手前のエイド)に長袖シャツと手袋を置き、
No.60ASの195kmに替えのウェアーを置いた。後は、ウィダ−、バーム、カロリーメイト、バナナチップ、飴玉等の食べ物をそれぞれのエイドに置くことにした。
また、最後の長い下りの手前No.68AS
222.5kmに膝をサポートする為のメンディングテープを置いた。
そして最も大事なことは、トイレである。この国は、極端にトイレが少なく、コース上に一つもない。これはティッシュを携帯しない訳にはいかない。それと各エイドに置く荷物の中にもティシュを入れる。これだけ準備していても欲しいときに欲しいものが手に入らないのである。
74ヶ所のエイド中、大きなエイド以外は、殆ど現地のボランティアで賄われており、どこのエイドでも一生懸命尽くしてくれる。また、大きなエイドでは医療チーム、マッサージ担当のボランティアがおり、故障個所を見てもらったり、マッサージを受けたり出来る。今回は、大いにマッサージを利用させてもらった。このマッサージをしてくれるボランティアは、いくつかのチームに分かれているようでNo.22ASでマッサージしてくれたボランティアの若者が、行く先々でマッサージをしてくれ、まるで専属のサポーターのようであった。
ボランティアの中には,日本人もいる。30歳前後の渡辺さん、彼女もその一人。このスパルタに魅せられて毎年ひとりでやって来るとのこと。彼女には幾度となく励まされ、大変有難かった。
〈ギリシャの暴走族〉
100kmを過ぎた辺りから4,5人の若者が3台の100cc以下のバイクに乗りスピードを出してランナーと擦れ違いざまや抜いていく際に奇声をあげていく。それを何回も繰り返す。
初めのうちは、応援してくれているのかと思っていたが、あまりにもしつこいのでうっとうしくなってくる。何とサンガスの上りに入る手前まで繰り返していた。日本の暴走族よりは可愛いが、“もっと他にやることがあるだろう!” と言いたくなる。エネルギーが有り余っているのならレースに出ればいいと思う。
私の場合は、全く被害はなかったが、やはり同じ付近で放し飼いの犬に噛まれたランナーや住人に投石されたり、襲われかかったりしたランナーもいたとのこと。悪戯ならいいが、それにしても度が過ぎる。
幸いなことにいずれもたいしたことはなかったようで、そのままレースを続けたとのこと。
〈雑草のごとく〉
No.35AS(124km)の大きなエイドに来ると何と応援バスが来ていた。そんなにペースが遅かったのかと思わず時計を見直したが、予定より1時間速いのでホッとする。
妻からの情報によると、沖山氏はNo.22ASもこのエイドの先でも、ガッツポーズをして、通過して行ったとのこと、益々絶好調のようである。一方、カンペイちゃん(間寛平)が、No.22AS(81km)ポイントで膝の痛みを訴え、その後も大分シンドそうとのこと。まだ半分も来てないのにそんな状態ではこれからが大変である。他人事ではない自分もいつそうなるかわからない。
すでに固形物はうけつられなくなっている。取り敢えずモモ、膝のマッサージとエネルギー補給をして出発した。
そろそろ辺りが暗くなって来たのでライトを点ける。炭坑夫ではないが、頭に付けると光がぶれなくてなかなかいい。装備はこれで十分。しかし、内臓の調子が思わしくなく、ペースも上がらない。そのうち110km付近で抜いたオノキ氏に追いつかれてしまった。
彼は、お腹の調子が悪いとのことで前を走っていたはずが、いつのまにか後ろから追いついて来て「不発に終わった!」などと言って抜いて行く。そんなことをしているうちにお腹の調子が戻ってきたのかどんどん先に行ってしまった。
走りながら調子を戻してしまうところなどは流石である。こちらは相変わらずである。
150km過ぎ、徐々に上り始めている。No.46AS(157km)では無理やりでも詰め込まなければ
ならない。唯一の救いは、多少調子が悪くても上りは何とか上れる。
No.46ASまでに3人ほど抜いた。このASでエネルギー補給をと、まずは内臓が調子悪い時の頼みの綱“正露丸”を飲む。次にカロリーメイトを食べバームウォーターで無理やり流し込もうと慌てて飲んだ。しかし、それが間違いであった。
ムッときた途端、全部戻してしまった。こうなっては頼みの綱も何にもならない。吐くものがないのに嘔吐が続く。胸が痛くなる。
嘔吐しながらふらついているとボランティアの方が支えてくれた。しばらく椅子に座り落ち着かせる。その間に4,5人に抜かれる。その中に船田さんがいたのには驚いた。年齢は私と同じ位、身長は150cm以下の小柄な彼女が元気良く通り過ぎていく。しばらく休んで落ち着いてきたのでエイドを後にする。詰め込むはずが、全部出してしまった。
吐いて楽になったせいか次ぎのエイドまでの上りで、抜いていったランナーを抜き返すことが出来た。しかし、No.47ASでも戻しそうで何もとらず難関のサンガスに挑んだ。岩のごろごろしている獣道のようなところを点滅灯を頼りにジグザグに登っていく。
足を滑らしながらも何とか頂上に着いた。しかし、ここまでだった。 頂上のASでも食べるに食べられず、キャンディーを要求するがない。仕方なく白湯だけもらって、急な下りを降りていく。葛折れの坂を5分ほどフラフラしながら下ったが、これ以上行くと足を踏み外しそうで危ない。カーブの膨らんだところで横になることにする。
背中はごつごつするが、星がきれいに見える。目を閉じる。しばらくすると足音が近づいてきて、そして遠ざかっていく。カ−ブの端の方で寝ている為、誰も気が付かない。3,4人ほどが通り過ぎた。みんなサンガスの上りで大分梃子摺っているようである。
大分寒くなってきた。長袖に着替えとけば良かった。このままだと筋肉が硬直してくる。起き上がってみる。まだ血糖値が下がったままのようである。30mぐらい下るが再び立ち止まり岩に寄り掛かる。とにかく甘いものを探す。エイドに置いていた飴を持ってくれば良かったと思う。ウェストバックを漁っているとバナナチップが出てきた。
また、戻すかもしれないが、この際仕方がない。ぽりぽり食べていると船田さんが降りてきた。坂の途中で岩に寄り掛かっている私を見つけ驚いていた。彼女もサンガスの登りで大分梃子摺ったとのこと。バナナチップを食べて少し落ち着いたので下り始める。
歩きから次第に走れるようになる。サンガスを下った辺りで船田さんに追いつきそのまま先行させてもらう。そして次ぎのエイドに何とかたどり着き、早速マッサージをしてもらう。船田さんは、エイドにちょっと立ち寄っただけですぐに行ってしまった。
彼女も本当のウルトラランナーである。後半になればなるほど元気になってくる。きっと内に秘めたパワーは凄いものがあるのだろう。
そうこうしているうちに今度は沖山氏の奥さんがきた。挨拶を交わすとすぐに行ってしまった。私もこうしてはいられない、エネルギー補給をしてすぐに出発する。しかし、エネルギー補給と言っても飲み物しか受け付けれず、エネルギーになるものと言ったらコーラぐらいしかない。これでどこまで持つかである。
どこのエイドでもそうだが、コーラを頼むと水で薄めて出してくれる。気の抜けた炭酸のようであまり頂けない。最後の方は自分でコップに注いで飲むようにした。
しばらく走ると沖山の奥さんに追いつく。彼女も大分足にきているようで早歩きになっている。この早歩きに追いつかれたのである。如何にサンガスの山で時間をロスしたかがわかる。取り敢えずお先に失礼し、先を急ぐ。
もっとエネルギー補給をと、次のエイドでコーラをちょっと多めに飲み走りだしたら、また、嘔吐が始まった。橋の欄干にもたれ酸っぱい胃液を戻す。吐くものがなくなってもまだ嘔吐が続く。胸が痛くなり涙が出てくる。
水の流れていない暗い川底を見ながら“俺は一体何をやっているのだろう”と思う。
日本を離れる前、さくら道国際ネイチャーランの申込用紙が送られてきていた。すぐに出そうと思ったが、スパルタから帰ってきてから走暦の欄にスパルタの完走記録を1行加えてから出そうなどと甘い考えをしていた。
“何が30時間以内だ、調子にのるな。もうやめた!”二度とウルトラは走るまい。
ウルトラレースの度にいつもそう思うのだが、懲りずにまた申込み、このざまである。
“今度は本当にやめよう。”
そのときはそんなことを思っていたが、不思議とリタイヤのことは頭に浮かばなかった。いつまでそうしていたのか、定かではない。いつの間にか走っていた。そして、時計を見ながらロス時間を計算している。
No.35ASでは、予定時間より1時間速かったが、今は1時間遅くなっている。取り戻さなければ!記念慣行有意義
〈砂利道〉
暗くなって厄介なのが、砂利道である。しかも,大き目の石もごろごろしている。走るときはメガネをかけないので、ライトで照らしても道の凹凸がわかり難い。また、道と茂みの境もわかりにくく、ボーッとして走っていると足を挫きそうになったり、道から外れそうになったりする。スピードを落としもっとゆっくり走ればいいのだが、そうはしたくないので結構神経を使う。この砂利道がサンガスの手前と後にそれぞれ10数kmほどある。まるで完走をさせない為のコース設定のようである。
〈消えたエイドスティーション)
朝6時を過ぎてもまだ暗い。ここまでくると意思とは関係なく体だけ勝手に動いてる感じがする。こうなると唯一の楽しみはエイドステーションである。たかが数kmなのに次のエイドが待ちどうしくなる。ペットボトル付きのウェストバックを用意するつもりが、いいのがなかったのでウェストバックだけの物を買いペットボトルを手に持って走ることにした。
ペットボトルには水を一杯入れると重いので1/3ほど入れ(次のエイドまでの分)、口に含んだり体にかけながら走る。
ところが、No.51ASで次のエイドまで2kmと聞いていたのに行けども行けどもエイドが見当たらない。“さては道を間違えたか”とも思ったが、目印の赤白リボンが小枝にぶら下がっているのを時折見かける。こんなに楽しみにしているのに見過ごすはずはないしなどと思っているうちNo.51ASを出てから、かれこれ40分が過ぎる。水も殆どなくなってきた。
こうなったらその次のエイドに行かざるを得ない。そして更に10分。まだエイドが見えてこない。6分/kmとしても8kmは走っている。またエネルギー切れの兆候が現れ始めてきた。
そろそろ危ない。幾つかのゆるいカーブを過ぎたころ、ようやくエイドが見えてきた。こんなにエイドが有難く思えたことはなかった。早速エネルギー補給をする。甘い物を要求すると蜂蜜をお湯に溶かしてくれた。
落ち着いてから、手前のエイドのことを尋ねたが何を言っているのか解らず、そのうちどうでも良くなってきてそのエイドを後にする。こういう時“英語を勉強してれば良かったな”と思う。
〈最後の追込み〉
No.53ASまで来ると交通量も多くなり、道幅も広く見通しが利く。最後の上りである。遠くにランナーらしき影がゆれている。段々近づいていく。やはりランナーである。どうやら上り坂で歩いているようである。追いつき挨拶をして抜いていく。調子が悪くても上りになると不思議と上れる。しかも今は、調子が上向いてきているので急な上りでもあまり気にならない。
これからである。腕の振りにも力が入る。その時、うしろから来た車がクラクションを鳴らし停止した。てっきり一般車の応援かと思い手を上げたが、よく見ると後部座席に我妻がいるではないか。道路を横断し、近づくと妻が降りてきて、どうしてこの車に乗っているのか、訳を話し、すぐにNo.68ASに向けて走り去った。
それによると、応援バスに乗っていたが、No.52ASでは、2時間前に私が通過していたのでこのままではゴールが見られなくなると思い、交渉してスパルタ方面に行く車にリレー式に乗せてもらったとのこと。
後で聞いたのであるが、その車に私をマッサージしてくれた若者とその彼女(ミコさん:すごい美人)が、乗っており、妻がミコさんにいろいろお世話になったとのことで、夫婦でこのカッルにお世話になったことになる。
No.68ASまで、まだ25km程あるが急に元気が出てきた。次のエイドまでが短く、気が付くと道路の反対側にあったが、調子がいいので手を振って通過する。
上り坂はまだまだ続く。自分を追い抜いて行った車が一旦山陰に隠れ、数分後、遥かかなたの上の方を走っていくのが見える。
吉越さんの奥さんが言っていたとおりの場面である。調子の悪いときであれば、ウンザリするところであるが、今はそれほど気にならない。嫌気が差したのはそのあとである。頂上とおぼしき辺りに来てホッとしたのであるが、その後もちょっと下り、また上る。それの繰り返しでなかなか頂上が見えてこない。おまけに朝方曇っていたが、今はいい天気になり、かなり暑くなってきた。
その後、尾根のようなところとなり、道が下りに入ってきた。そしてNo.68ASの荷物を置いている最後のエイドについた。
そのエイドで妻から「船田さんが1時間半前に通過した。」と聞かされガクッとなる。2度目の嘔吐で思わぬタイムロスをしていたようである。残り25km程、挽回はとても出来ない。また、自分のゴールタイムも30時間はおろか31時間も無理かもしれない。ここまで来たら、どこが故障しても頑張るしかない。後は長い下り。ここでは、マッサージはしてもらわず、メンディングテープで膝をサポートし、飴玉を持って出発した。急いだつもりでも10分以上かかっている。何とか30時間台でゴールしたい。
短い距離では、ストライドを伸ばして下って行くのであるが、膝に負担をかけないよう摺り足で下って行く。それでも1km、6分以上かかっている。速く走ろうと思っているが、この程度である。
スパルタに近づいて来るにしたがって、行き交う車からの応援がいっそう多くなる。それに伴い気力が益々沸いてくる。山を下り平坦な道路になる。後数kmである。
〈ゴール〉
町に入ったが、ゴールまでの道案内がない。案内がないということはまっすぐ行けと言うことだろうと思うが、30時間台でゴールしようと思っている今、いささか不安になる。しばらく走ると前方に人だかりが見えてきた。最後のエイドである。ここからはランナーの両脇に中高生が、伴走してくれる。しかし、5分ペース程で走らないと30時間内でゴールできな
い。出きるだけ高学年がいい。
最終エイドに着くとこちらの気持ちが通じたのか、二人の女子高生であった。丁度自分の娘と同じくらいである。しかし、背が高い。
最後の2kmのゆるい上りを5分/kmで走るが、二人ともぜんぜん息を乱していない。おそらく普段から練習しているのだろう。
残り1km。メインストリートに来ると交通量がグッと増える。そこをパトカーの先導で走る。街の人々が拍手と「ブラボー」と言って、祝福してくれる。最高の気分である。前方に男性と女性の二人のランナーが歩いている。このままだと抜いてしまう。
しかし、一緒に歩いたのでは30時間をオーバーしてしまう。後数100mなのに歩くのは勿体無い。ここは、挨拶をして抜くことにする。(しかし、後でゴール時の写真を見たとき私の後ろを必死になって走っている二人の姿を見て、やはり抜かずに一緒にゴールすべきであったと反省する。)
最後は観客の拍手の中、伴走の女の子と手をつなぎレオニダス像にタッチして完走を果たした。完走後、その場で月桂冠を頭にのせてもらい完走メダルを頂き、15,6人の子供たちからのサイン攻めに遭う。2,3人にサインしたところで大会の係りの人に腕を捕まれ引きずられるように待機している救急車に乗せられる。その間も子供たちがサインを求めてくる。一瞬何が起こったのかと思った。後からゴールした二人も乗せられる。まるで連行されている感じである。
その後、町の病院に行き足を消毒してくれる。このとき足に豆などが出来ていると処置をしてくれ、また救急車でホテルまで送ってくれる。まさに至れり尽せりである。
ホテルでシャワーを浴び、一休みして、ゴール地点に行ってみる。ランナーが見えるたびに拍手と声援が沸き、関門時間が迫ってくるにしたがって一層盛り上がり、最後のランナー(大阪から来た女教師の佐田さん。まだ30代)が来た時には、ピークに達し非常に感動的だった。
ちなみに心臓を三回手術したランナーも35時間台で無事ゴールした。
〈新たなる挑戦〉
長い長い道のりであったが、完走して本当に良かったと思った。出きれば次回は、29時間を切りたいと考えている。 来年のさくら道国際ネイチャーランの申込みにスパルタスロンの完走記録を1行加え、投函した。課題は内臓強化である。
〈参加及び完走人数〉
日本
48人 24人
フランス 37 20
ドイツ 21 10
ギリシャ 21 5
ハンガリー 8 3
イタリア 8
2
オランダ 8 1
ポーランド 7 4
イギリス 7 2
ブルガリア 7 1
スウェーデン 5 3
アメリカ 4
2
フィンランド 3 2
オーストリア 2 1
スペイン 2
カナダ 1
ベルギー 1
ロシア 1
ユーゴスラビア
1
チェコ 1
モロッコ 1
キプロス 1
クロアチア 1
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