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@私が246km走る理由  『遠くにあるゴール程、喜びも楽しさも大きい』

2001スパルタスロン完走記  関根 孝二  

『遅いランナーでも完走出来た246km』

 アクロポリスの丘のスタート地点に立っても全く緊張感が無く、これは一つの余裕なのか、あるいは『全ては成るようにしか成らない』と言う開き直りなのだろうか、まるで普通のウルトラマラソンを走るような感じだった。

 スタート直後、学芸大学の助教授渡辺先生が私にビデオカメラを向けた『3分前にゴールしますから』と一言いって集団と共に走り始めた。とりあえずキロ5分半のペースで走り始めたがこのペースがいつまで続くやら。

 昨年は仕事が忙しすぎて練習不足だったが、今年は全く逆で調子が良すぎて走りすぎてしまった。何しろ日本を出発する前日に私が主催した『太陽の道ウルトラマラニック(190km)』の第2ステージ150kmを走ってしまったのだ。野を越え山越え谷越えのハードなコースで27時間39分かかったウルトラランだった。スパルタスロンのスタートまで中3日の休養しかなかった。

 案の定『太陽の道』の疲れは抜けておらず全然スピードが出ない。キロ5分半のペースは20kmまでしか続かず、6分半くらいのペースに下げる。このまま40kmまで行けば後は更にペースを落しても何とかなるはずだった。貯金の無いまま制限時間ぎりぎりの苦しい走りだ。

 82km地点のチェックポイントHELLAS CANを制限時間10分前にスタートする。このままイーブンペースで走ればなんとかゴールできるはずだ。いつのまにか少しずつ身体が軽くなり完走できそうな予感がこのあたりからしてきた。しかし、全てのエイドに関門時間がありほとんど5分か10分前に到着するという危ない走りだ。

 深夜の走りもサンガス越えもどうにかクリアしたが2日目の昼ともなれば睡魔になやまされる。眠気に弱い私は、目をつむりながら走ったり、飴をなめたり、歌を歌いながら眠気を我慢するが、一番きいたのは草の上に大の字になり1分程寝ることだった。

 私は各エイドを通過する最終ランナーであった。2日目の午後になると私がエイドに着くとエイドの片付けが始まってしまうのだ。テーブルやいすを積み込むトラックが横付けされている。エイドを出発してしばらくするとさっきのトラックが走って行く。また次のエイドで私の到着を待っているのだ。トップからラストまで12時間も待っていた各エイドのスタッフには感謝の気持ちでいっぱいでした。

 スパルタ市内へ近づいた頃、意外と余裕ができた。ここまで来たら昨年同様の最終ランナーでゴールしようと考えていた。すると、足を引きずりながら歩いたり走ったりの山下君に追いついてしまった。しばらく彼を追い越すかどうか考えていたが、彼の調子を後ろからみているとどうも危ない様子だ。このまま後ろに着いていたら時間内に完走できるか判らないので彼を追い越すことにした。スパルタ市内に入ると二人の日本人に追いつく。いまさら順位を一つや二つ上げても仕方ないので彼らの後ろに着いていたが、意外と彼ら足が痛そうでもたもたし始めた。『急がないとゴールに間に合わないよ』とはっぱをかける。

とうとうレオニタス像の前にやってきた。佐藤さん、鈴木さんに続いてゴール。所要時間35時間56分55秒、渡辺先生に宣言したとうり3分前にゴールした。『やった!2年連続の名誉ある?最終ランナーだ』しかし、この感激はすぐに打ち砕かれた。なんと終了5秒前に山下君がゴールしたのだ。私はブービーとなり、彼への拍手と歓声はこの大会で最高潮に達したのだ。

 大会参加2回目でビリからブービーへ順位を一つ上げることが出来た。でもこれで優勝するとなったらあと80年かかるだろうね。だって今回81位だから。


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