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          2005年 大村湾一周160km+70km前夜ラン完走記

                                                  熊本県  横田 哲史(229番)

  3年連続3回目の参加となった「大村湾一周160kmウルトラマラソン」、今回は、この大会の姉妹大会である「玄海100kmウルトラマラソン」でそうしたように、3回目にして初めての正規スタート(16時)正規ゴール(24時間)を目指す予定でした。ところが、昨年末、田中行広さん(日本100マイルクラブ九州支部長心得)から悪魔のお誘い、「福岡から嬉野温泉まで徹夜で走って行って、そのままスタートしない?」・・・。福岡から嬉野温泉までは、地図を辿ればたっぷり100kmはあります。トータル260km、確かに「萩往還250km」や、日本100マイルクラブの「関西夢街道スーパーラン320km」への絶好のトレーニングにはなるでしょう。しかし、単独でも十分厳しい「大村湾一周160km」、それをこの時期に、前夜に徹夜ランして走りきれるのかどうか。

 幸か不幸か、前日18時過ぎまで熊本を離れることが出来ず、結果として前夜ランは柳川から嬉野温泉までの60km、田中さんたちとの合流時間を考えてもせいぜい70km止まりになりました。220km〜230kmなら、1月のトレーニング次第では何とかなるかも知れない。日本100マイルクラブ九州支部熊本駐在事務所員のワタシとしては受けざるを得ません。まったく厳しい先輩を持つと苦労します。もう2度試みないであろう、ばかばかしくもどこか儚いチャレンジを振り返ってみます。

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1 大会まで(できるだけ、簡潔に)

 18時過ぎには終わるはずの会合が、なかなか終わる気配を見せない。当初は、18時30分には職場に戻り、上熊本駅19時18分発のJRに乗って柳川に向かう予定だった。一本遅らせるしかない。1時間遅れで仕事が終わり、大急ぎで職場にとって返し、上熊本駅19時58分のJRに飛び乗る。大牟田で西鉄に乗り換え、21時4分柳川着、2月10日21時10分、孤独なスタートを切った。

 福岡(JR博多駅)からは、田中さんのほか、東京から参加の藤原さんも走ってくる。去年の4月まで、和歌山での上司筋に当たる人、毎月400kmは走る。田中さんの呼びかけに乗るところ、やはりただ者ではない。この二人との合流地点が嬉野温泉の手前約17kmの武雄温泉で、柳川からは約43km、ルートは車で熊本から家族の住む佐世保に帰るために毎週のように通っている道、地図を見なくても迷いようのないのがうれしい。徹夜ランを含め、2回実際に走っているのも強味である。

 前2回のタイムを参考にしてかなりのスローペース、約7時間後の午前4時の到着を目指す。田中さんたちはJR博多駅から武雄温泉までは80km強、17時にスタートしているから、実力者二人なら11時間後の午前4時は射程距離だろう。

 思わぬ好調ぶり、6時間後の午前3時には、合流地点である国道34号線の二股の交差点に着いてしまった。まさに着く寸前、携帯が鳴る。ぴったりタイミングがあったかな、速い、さすがだなと思って電話を取ると、意に反して午前5時頃の到着になるとのこと、34号線を逆走し出迎えることにする。

 北方町と大町町の町境で無事に合流を果たし、反転して34号線を一路嬉野温泉まで。途中、藤原さんのエビアン(ペットボトル水)に氷の破片が浮いた。路線上の温度計は氷点下を示し、藤原さんが風邪気味なのが少し気がかりだ。7時51分、松園着。ひとまず第1段階はクリアである。

2 大会本番

 10時のスタートまでの2時間あまり、受付をすませたり、3人で朝食を取りに行ったり。すでに松園には、夜行バスで関西から現地入りした旧知のランナーが大勢いる。知らない人がいないくらい、再会を懐かしみ、徹夜ランで嬉野温泉入りしたことを半ば呆れられ、半ば褒められ。

 10時スタート組だけでも総勢30名以上、田中さんとすごい人数になったよねえと語り合う。たしか、初期の頃は10名程度の参加人数だったはず、それだけ魅力のある大会だということだ。本来は3人とも10時スタートをする予定だったが、藤原さんは2時間ほど寝て12時スタートにするという。

 スタート直後は、みんなと冗談を言い合いながらのんびりと行く。天気も良いし、気分は最高、徹夜明けだがまだまだ元気である。

 国道34号線を右にはずれ、大好きな脇道へ。木立の中のランニングは本当に気持ちが良い。昨年は「路草コース」で、隠れキリシタン記念碑を見て回ったことなどを思い出す。

 国道34号線に復帰の前後の急坂を上り、およそ10km地点の俵坂関所跡に11時14分着、ここまでは上り基調を1km7分ちょっと、オーバーペースとは図々しが、まずは順調な滑り出しである。

 ここからは5km以上の長い下り、まあ、重力に逆らわずにのんびり行く。途中のドライブインでトイレ休憩(大)はご愛敬である。ぼちぼち下っていくと、やがて目の前に大きく大村湾の青が広がってくる。「大村湾一周ウルトラマラソン」としての最初の大きな見せ場だろう。

 長崎自動車道の高架を潜った辺り、コース案内にはないエイドがあった。15km地点とのこと、ありがたい限りである。11時52分着。

 やがて東彼杵インターの交差点、ここから長い長い大村湾一周が始まる。ところで、「大村湾一周」は、隔年で右回り、左回りが入れ替わる。昨年は右回りの年、この交差点を直進した。今年は左回り、初めて参加した一昨年と同じようにこの交差点を右折して国道205号線に入る。 今回はなにしろ70kmの徹夜ラン明け、先(ゴール)のことを思えばおそらくその道行きの長さに圧倒されてしまうだろう。とにかく手頃な目標を設定すること、現時点では33km地点のハウステンボスか、そんなことをつらつら考えているうちに、12時35分、22km地点のエイドに到着した。

このエイドでは「路草コース」を行く岡野さん、岡村さん、平賀さんの関西勢や福岡の澤田さんたちがコースを逆走してやって来た。なかなか面白そうに見えた。

 エイドにて5分ほどでエネルギー補給をすませて出発。川棚町から佐世保市に入る手前の小串郷の峠越えで、早くも第1回目の眠気に襲われ、足下がふらつき出す。まだ14時前、情けない、こんなことでは先が思いやられる。この峠越えは佐世保側に入って下りになると歩道がなくなることはよく分かっている。歩道がある今のうちに寝ておこうと、歩道脇の腰の高さくらいの段差に上がり目を閉じた。

 はっきりと意識が落ちた瞬間、女性の声で名前を呼ばれて目が覚めた。岡村さんだった。時計を見ると3分経っている。すぐに起きだし後を追う。峠のトップで一息入れている岡村さんたちに追いつくと、起こしてごめんなさいと言われる。冗談じゃない、こちらこそ気をかけていただいてとお礼を言い、一足先に下り出す。 ところで、この小串郷の辺りは、中学生の頃読んだ「仮題・中学殺人事件」(辻真先・著)という推理小説で、アリバイトリックで出てくる地名なんだね。もう30年近くも前の話、本当に懐かしい。アップダウンは多少きついものの、左手に大村湾が見え隠れして、今晩走る西側海岸線も遠くから臨めるポイントでもある。

 佐世保市に入ってしばらく走っていると、やがて左手遠方にハウステンボスで一番高い塔、ドムトールンが見えてきた。3年ほど前に家族が佐世保に越してきて以来、モーレンクラブに入って年会員となり、今では月に2〜3回は来ている。ハウステンボスは、中高生向けの派手なアトラクションこそ少ないが、大人がゆっくり散策するにはもってこいのテーマパークだと個人的には大変高く評価している。

 ここには33km地点のエイドがあるはずなんだが、一昨年あった場所には人影はなく、やはりまだ時間が早すぎたのかな、と思っていたら針尾橋を渡ると右手にエイドがあった。少し気落ちしていただけに、本当にありがたい。走っている分にはそれほど寒くはないが、風も強いし頭が下がる。このエイドではミニカップ麺をいただく。14時40分過ぎ出発。

 エイドを出た直後、右手に早岐瀬戸の水面を臨む中古バイク捨て場(?)で、暑くなってきたため上着(ジャージ上)を脱ぐ。この時、チョンボをおかす。   

 指方の交差点を左折し、俵坂峠、長崎日見トンネルに次ぐ、大村鈴田峠に匹敵するアップダウン地帯が始まる。元々上りは得意だし、最近は下りにも強くなってきた。軽快に腕を振り走っていたが・・・、あれ、なんで両手が動くんだ?地図を入れたジップロックがない!さっき上着を脱いだときに間違いない。たしか、黄色いミニバイクのかごに入れた記憶がある。さて、どうしたものか。もう30分近く走っている。往復で小1時間か。道は熟知しているし、迷うことはない。惜しむらくは記入していた途中の経過時間くらい(これがないと完走記を書くとき大きな支障が出る)、30秒ほどで決断して先を行くことにする。

 西海橋までのアップダウンでは、先を行く同じ10時スタートの方々、ひまちゃんこと兵庫から参加の関さん、岡山の原さん、埼玉の鈴木さん、そしてランニングだけでなく職場の先輩、福岡の川口さんたちにようやく追いつきだした。コース(アップダウンの雰囲気)はよく分かっているし、なにより上りが得意なのが強味だ。このアップダウンで、常にウォークをしている方に出会った。地元長崎から参加の満居さん、大会終了後知ったことだが、なんと御年70歳!で、まったく走らないで26時間52分でのゴールとのこと、世の中にはまだまだすごい方がいることを思い知らされた。

 この辺りは確かにアップダウンがきついんだが、その分眺望がきいて、大村湾を楽しむ最高の見せ場であると思う。ただ、楽しめるのはせいぜい12時スタートまで、14時、16時スタートでは、よほどのペースでないと夕暮れに間に合わないだろう。

 西海橋に16時前に到着、進行方向右隣の第2西海橋の工事具合も順調のようだ。相変わらずここからの景観はすばらしいの一言である。遙か眼下の渦潮を見ていると、時間が経つのを忘れそうになる。西海橋と言えば、初めて来たのは昭和53年、高校2年生の夏、母親の友人の実家に家族で遊びに来た折のことだった。あの頃は、古里の東京・下町をほとんど出たことのない人生、まさかその約15年後に長崎の人間と結婚して長崎で家族を持とうなどとは夢にも思わず、さらに約25年後に、当時は競技があることすら知らなかった(なかった?)ウルトラマラソンの大会で、走ってこの橋を渡ることになろうとは、想像だにできなかった。そう思うと、人生など不思議なものだ。

 西海橋を渡り終えるとすぐ左手に45kmエイド、16時1分到着。お馴染みの村田さん、佐藤さん、うーさんこと植村先生がボランティアでおられた。うーさんお手製のスープに舌鼓を打つ。このエイドには同じ10時スタートの福岡の峯さんが先着していて、ワタシが地図の入ったジップロックを置き忘れたこと、そのためハウステンボスエイドのボランティアの方の携帯番号を教えてほしい旨を村田さんたちに話していたら、「うちのが車でいるから電話で話して」と言っていただける。さっそくご主人の峯さんに電話、置き忘れた場所やジップロックの特徴などを話すと、すぐに取りに行っていただけるとのこと。誠にもってありがたい。うまく行けば80kmの火籠公民館で再び手にできるかも知れない。

 気分を良くしてエイドを後にする。次なる大きな目標は、もちろん、80km地点の大エイドである。今のエイドが45kmだから、スタートからはすでに半分以上来たことになる。しかも今回の総トータル、230km(70km+160km)のちょうど半分まで来たわけで(115km=70km+45km)、ほんのわずかながら一瞬だけ先(ゴール)が見えた気がした。

 しばらくは大村湾の海岸線に沿って走る。西海橋からのアップダウンを完全に下りきっており、海面の高さはすぐそこだ。この辺りで、大村湾を取材しているという読売新聞の記者の方に写真を撮られた。間もなく夕暮れ時、絶好のロケーションであり、モデルもいいからいい記事になるだろう(爆笑)。

  ちょうどこの前後だったか、ボランティアの方の峯さんが車でジップロックを届けてくれた!本当にお手間を取らせました。この場を借りて御礼申し上げます。

 17時40分頃、日本100マイルクラブの矢野カラやんから電話、今日は100マイルクラブでは、「信貴生駒縦走マラニック」が開催されている。ちょうどマラニックが終わり、お風呂に入ってこれから打ち上げとのこと。さぞかし盛り上がるんだろうなあ。

 夕闇の迫る中、18時10分過ぎに、鈴木さんと一緒に55km地点のオランダ村に到着。ところがさすがにエイドはまだ未設営だった。ぼちぼち夕食時、昼間もミニカップ麺などばかりであまりしっかりとした物は食べていない。これでは保たないと、すぐそばのコンビニで食事タイム、タンパク質補給にと塩鮭のおむすびと、最近はこういう場合には必ずビール(発泡酒)を飲むのだが、さすがに眠気が怖くてお茶にする。少し弱気の虫が出てきたか。

 この間にひまちゃんや川口さんたちが追いついてくる。ひまちゃんは後から来たのに、最小限のタイムロスで一足先に再スタート、そのしなやかな立ち振る舞いに、素直に感動を覚えた。

 いよいよ夜が来る。西彼町から琴海町に係る頃、再び100マイルクラブの矢野カラやんから電話、松本ぴかいちさん、大西おじさん、そして関根ナビさん、阪本真理子さんと、次から次へと激励の言葉をもらう。みなさん、メートルが上がっていてたいそう楽しげである。大西おじさん曰く、「なにい、9時間走ってまだ60km?どないなっとんねん!」。街灯もない町境の道、本当に元気づけられました(笑)。こんなすばらしい大会、来年は是非みんなで参加してもらいたいものだ。

 電話を切った途端に辺りを暗闇と静寂が包み、一転この日2度目の睡魔が襲う。ちょうどいいタイミングでバス停のベンチ、無理をしないで直ちに横になる。目を開けると6分経っていた。我ながら器用なものである。

 19時35分、65km地点の琴海パーキングエイド到着。初代走るウルトラ飲兵衛こと江口さんと、野口治ちゃんの従兄弟という智さんがボランティアでおられた。江口さんのどぎつい福岡弁と、治ちゃんを思い出させる智さんの爽やかな笑顔に少しく目が覚める。ミニカップ麺で腹ごなし。10分程度の休憩で出発。まだ辛うじて走れている。

 さて、中間地点の80km火籠公民館エイドがようやく見えてきた。残り15km、この分なら22時には着けるだろう。

 琴海町南部の商店街で、昨年の「玄海ウルトラマラソン」で大変お世話になった福岡の前川さんに追いつかれた。この辺りでひまちゃんと一緒になり、3人で火籠公民館を目指す。琴海町と時津町の町境がちょっとした峠越えになっており、歩道も街灯もなく、少々暗闇が濃い。乙女(?)のひまちゃんをエスコートするナイト(騎士)気分である。この峠越えは、一休みできる中間地点が近いということもあって、案外無理が利く。21時40分、いつものように佐藤三郎先生に出迎えられて80km地点火籠公民館大エイド到着。ひとまず我が身にお疲れ様を言う。

 エイドに着くと、田中さんが横になっていた。65km地点の琴海パーキングエイドで江口さんから、40分ほど先行していると聞かされていた。前夜100km以上走っているというのに本当にナイスランである。

 ワタシはまず腹ごしらえ、うどんとおむすびをいただく。そしてぜんざい、これが最高にうまかった。ひまちゃんが3杯お代わりするのも頷けるとしたもんだ。ワタシもしっかりとお代わりをする。タラちゃんこと、京都の藤田さんがボランティアでいて、何かと元気づけてくれる。タラちゃんは昨年のトップゴール者、今年は故障中ということで、このエイドまで走ってやめている。ところが、80kmまでのタイムが9時間ちょうど!実力者は故障でも、常人とは違うようだ。

 22時前、田中さんが起きだして、一緒に出るかと誘う。一瞬迷ったが、徹夜二晩目、少し横になった方がいいと判断し先に行ってもらう。その後は例年恒例、衛藤さんにマッサージをお願いし、別物のように軽くなった下半身で横になって目を閉じた。

 20分程度目を閉じていたが、実はおととしの「OSAKABAY240km」や、昨年の「萩往還250km」の時もそうだったが、二晩目の夜も、こういう状況では眠れないんだ。気持ちの高ぶりに加え、日常では感じたことのない眠らなければというプレッシャー、半分開き直っており、眠れないのは元気だからと頃合いを見つけ動き出す。結局、1時間10分の長い休憩となって、22時50分、後半戦へスタートを切った。

 時津町から長崎市へ。この長い緩やかな上り道が、疲れた身にはかなり応える。ところで、大村湾を忠実に一周しようとしたら、この時津町から長崎市には入らず、長与町、多良見町を経て諫早市に入るルートがあるにはある。大会のルートよりは短めだが、アップダウンは相当きつい。時間的にはもう夜間だが、海岸線を走れることもあり「路草コース」の一つとしては面白いかも知れない。

 同じ右回りの一昨年もそうだったが、この辺りから眠気が断続的・連続的に襲ってくる。特に今回は徹夜二晩目、強いというよりしつこい眠気だ、身体全体にまとわりつくような。諫早市で夜が明けるまで、はっきりとは記憶にないが、5回ほどバス停のベンチで横になったように思う。

 90km地点、長崎大学前エイドに0時30分到着。この10kmにちょうど100分かかっている。多少は走っているつもりなんだが、1kmに10分では、普通の早歩きと変わらない。こんな自分が本当に情けない。

 このエイドでダブルさんこと、兵庫の田処さんについに追いつかれた。90kmを8時間30分である。あまりのペースの違いに呆れるより言葉が見つからない。こちらが24時間でゴールすれば、ひょっとして追いつかれないまでも俵坂峠辺りで一瞬だけなら勝負できると目論んでいただけに、その考えの甘さ、木っ端みじんに吹き飛ばされた。

 実はこのエイドで反省すべき出来事が。気分の良いことばかり書き綴っていてはフェアではないので、敢えて恥を晒すこととする。二晩目の徹夜で朦朧としていると、ボランティアの女性から、「眠くなるのはまだ早いですよ」と声をかけられた。気が付くと、疲労と眠気から、おとついの夜から走っており二晩目の徹夜で非常にきついことをくどくどくどくど喋っている自分がいた。

 前夜ランはあくまで好き勝手にやっていること、他人様にどうのこうの言う話ではない。ましてや、深夜の寒空の中、懸命にランナーのことを気遣い、励ましてくれているボランティアの方に八つ当たり(?)的に反応するなど言語道断だ。もしこの拙い完走記をお読みになっていただいているのなら(その可能性は低いとは思うが!)、この場を借りてお詫びいたします。ごめんなさい。

 ボランティアと言えば、今回は(も)本当にエイドには助けられた。エイド以外にエネルギー補給で立ち寄ったのは、55km付近と110km過ぎのコンビニだけ、最後まで走ることができたのは、まったくもってボランティアと皆さんとスタッフの方々のおかげである。その感謝の気持ちを一瞬でも忘れるなんて、穴があったら入りたいくらいだ。

 本格的に長崎市内に入ってきたが、2日前から始まっている「長崎ランタンフェスティバル」の雰囲気がまったくと言っていいほど感じられない。疲労で感覚が鈍くなってきているのだろうか。確かにこの前後、断続的に睡魔に襲われ、走ることがかなり難しくなってきている。例年「大村湾一周」はこのランタンフェスタと時期が重なっており、深夜とはいえその雰囲気を感じるのを楽しみにしていたのだが。

 しかし、やや大村湾から離れるとはいえ、長崎市内を走るコースはいろいろと寄り道が出来ていい。初参加のおととしは、実力もないくせに馴染みのジャズクラブ「グッディ・グッディ」まで足を伸ばし、結果として得意の宴会ゴールとなった。24時間前後で走りきれる実力があって10時スタートすれば、長崎市内で1時間程度寄り道できる余裕は生まれると思う。深夜とはいえ名所には事欠かないし、小洒落た店で生ビールでも飲みながらお喋りするのも楽しそうだ。来年あたり、そんなプランを立ててみよう。

 JR長崎駅前の吉野家を左折する。ここから日見トンネルまでが、迷いやすいという点でこのコースの最難関ポイントの一つだろう。もっともワタシにとっては庭先のようなもの、疲れているとはいえさすがに問題はない。

 現在は、人に貸している我が家(マンション)もコース上にあり、数十秒ほど久しぶりの玄関先を眺める。4月以降は嫁さん(浩子)の佐世保勤務もたぶん終わってまた長崎に戻れるだろう。来年の大会では、この辺りで嫁さんや娘たちに臨時エイドを出してもらうのもいいなどと勝手なことを考えながら日見トンネルに向かう。

 コース高低マップでは2番目の難所と言える日見トンネルだが、1回上って1回下りるだけだし、歩道も照明も完備していて走り(歩き)にくいことはない。ただ、相当意識は朦朧としている。歩道がなければ危なくて仕方ない。

 トップを越え、下りを利してようやくジョグのリズムを取る。と、後ろから軽快な足音が。振り返ると嬉しいことにふじっもっちゃんこと広島の藤本さんだった。声をかけ、もう間もなくの100kmエイドまで引っ張ってもらう。ふじもっちゃんもエネルギー切れを起こしたとのことで、併走を喜んでくれた。

 2時40分、なんとかふじもっちゃんに遅れることなく、水族館前100kmエイド到着。この10kmはなんと2時間10分もかかってしまった。1kmを13分とは歩きよりも遅いペースだ。大半を歩き、途中何回かバス停のベンチで横にもなった。こんなペースが続けば、完走は限りなく苦しくなる。

 100kmエイドから約20kmほど、時間的には深夜の3時前から明け方6時前まで、この区間が今回最も厳しかった。考えてみれば、去年の「萩往還250km」の時も、徹夜二晩目の深夜4時前後にまさに地獄を見た。ワタシにとって、この時間帯が正念場なのかも知れない。

 まだ意識が回復している時間は身体も動く。トレーニングの効果は間違いなく認められる。しかし、大半の時間は朦朧とした意識の中、まとわりつき、粘り着く睡魔と懸命に闘う。2度3度、バス停のベンチで横になり、眠気覚ましのカフェインを口にするが、ほとんど焼け石に水だ。

 3回ほど意識がはっきりしたのが、多良見インターの高架を、川口さんたちに歩道を教えながら潜ったときと、110kmエイドでボランティアの村田さん、佐藤さんたちと話をしたとき、そして一昨年道を間違えた諫早市宇都町の交差点を、右折せずに慎重に直進したとき。あとの時間は、まるで夢遊病者である。

 鬼門だった宇都町の交差点を越え、川口さんたちとコンビニ休憩、機能停止状態の脳に栄養分(糖分)を送るために練乳系のパンと、眠気を少しでも晴らすために滅多に飲まない無糖の缶コーヒー、タウリン配合のドリンクは迷ったが見送る。確かに効果はてきめんなのだが、ワタシの場合、3〜4時間で効果が切れるとその反動が非常に大きい。ゴールまでとても4時間以内に辿り着けるような状況ではないだけに、あきらめるしかない。

 コンビニを出た後、休憩で身体が冷えたため、ジャージの下にロングタイツをはく。今回は天気が良い分、放射冷却というのだろうか、気温はかなり低めである。ただ、着ているジャージがデュアルレックス・タイプという優れ物で、夜明け前のこの時間でもそこまで寒さは感じていないのだが、まあ、とにかく目を覚ますために、なりふり構わずいろいろなことをやってみるわけだ。

 JR諫早駅を過ぎ、120km地点に差しかかる頃だっただろうか、ついに待ちに待ったもの、夜明けが背後からやって来た。まさに黎明、藁にもすがるとはこのことだ。陽を浴びることで身体が起き出すことを切に願う。と、同時に鈴田峠への上りが始まる。すっかり忘れていた戦闘意欲に久しぶりに火が付き、ラン&ウォークのコンビネーションランで上っていく。間違いなく走り出せた。6時50分頃には、すでに大村市に入った田中さんから電話が入る。同じようなばかげたことをやっている“戦友”もがんばっている。一人ではない、完走できるかも知れない。

 ほとんど7時、123km地点鈴田峠エイド到着、先着していた鈴木さん、原さん、川口さんに追いつく。原さんが、「横田さんはすごい、必ず追いついてくる」と褒めてくれる。確かに振り返れば、火籠公民館を出てからというもの(もっと言えば、西海橋の手前から)、この3人にはバス停のベンチで横になって離されては追いつき、また横になっては離されるということを繰り返してきた。この期に及んでも、間違いなく粘れている。なぜか川口さんは急に張り切りだし、もう追いつかれないぞと言って猛然と走り出した。元気なものである。

 このエイドではさらにうれしい話が。地図ではここは123km地点となっているが、ボランティアの方が、カーナビで計ると嬉野温泉までは32〜3kmしかないと言う。ほんの4〜5km程度のことではあるが、本当に心が軽くなった。時間は7時、16時の制限時間までは9時間近くある。今回はこのエイドで初めてお会いしたみの仙人さまからも、歩いてでもゴールできるとお墨付きをもらう。はっきりと230kmの完走を意識した。

 辺りはすっかり明るくなり、大村市内へ向けて軽快に下る。多良見町から諫早市にかけて、苦しかったときに弱気に思ったことは、せめて200kmは走りたいということだった。嬉野温泉まで70km走ってきたから、130km地点まで行けばいい。JR岩松駅を過ぎ、久しぶりに大村湾と再会、やがて大村市の中心部へ。この辺りで130km地点、現金なもので、当然のように何が何でも完走するぞと気合いが乗ってくる。

 8時10分過ぎ、マッちゃんこと兵庫の長崎さん(ちょっとシャレになっている)から電話があり、110km地点の多良見エイドを通過したらしい。元気そうだった。ナイスランである。その直後、悲しい知らせが入った。もう一人の“戦友”、藤原さんと携帯で連絡を取ったところ、JR長崎駅でリタイアしたとのこと。風邪だろうか、体調は万全には見えなかった。それでもトータルで200km以上走ったことになる。さらに、JRで彼杵駅に移動した後、俵坂峠を走って上るそうだ。その意気や良し、こちらも負けていられない。

 大村市街地は、一昨年もそうであったが単調極まりない。ある意味、最後の難所とも言えそうだ。同じような感想を抱いている原さんと話しながら歩いたり、信号待ちの隙を見てコンビニで地図を見たりしながら時を待つ。我慢して走り、歩いていれば、いつかはゴールに辿り着ける。

 しかし、「萩往還250km」の時もそうだったが、二晩目の夜が明けると幻聴が聞こえてくる。夜は物がはっきり見えないせいか幻覚が見えるのだが、明るくなると幻覚が消えて幻聴になるらしい。しかしこの幻聴というやつ、なぜか登場人物は職場の人間ばかりで、何を言っているか分からないうえにうるさいこと甚だしい。同じ煩わしいのなら、せめて艶っぽい声を聞きたいと思うのは人情だ。

 地図がいよいよ16枚の最後の1頁目となり、9時30分、ようやく140km地点のJR松原駅エイドに到着した。一昨年エイドがあったスコーコーヒを過ぎてからというもの、まだかまだかと首を長くして到着するのを心待ちにしていた。琴海パーキングエイドでボランティアをしていた江口さんと智さんがここでもボランティア、七輪の火が暖かい。聞けば、俵坂峠の上り口である東彼杵インター交差点までは、あと6kmほどらしい。最後の峠は嫌でも越すし、ようやく心の底からほっとする。10分以上の思わぬ長居、残り6kmと何度も言い聞かせて腰を上げる。

 やがて東彼杵町へ。一昨年も思ったが、ここから眺める大村湾が、なんと言っても一番だろう。それは長かった道のりがようやく終わり、苦しみから解放される安堵感とは無縁ではない。加えて、一昨年は疲労困憊、走ることはままならなかったが、今回は二晩目の徹夜明けにもかかわらず、身体が起きている時間はしっかりと走れている。充実感、達成感で胸が一杯になる。

 千綿宿の辺りだったか、右側の歩道を走っていると、上の娘(あゆ)の同級生のお父さんが勤める会社の車が歩道に乗り上げてきた。もしやと思ったら、運転席からそのお父さんが降りてきた。「いや〜、何人か走ってたんで、ひょっとしたらあゆちゃんのお父さんもいるかと思って」。おとついの夜から走っていると伝えると、さすがに驚いていた。普通の常識人の反応は、当然こんなものだろう。

 東彼杵インター交差点の手前2kmほどの地点で最後の睡魔、歩道の縁石に腰を下ろし、3分ほど目を閉じる。

 東彼杵インター交差点を通過、まさにもうあとは帰るだけ。12時前に田中さんからゴールしたとの電話が入る。残念ながら100km徹夜ランしてからの24時間切りは果たせなかったようだがそれでも26時間切り、さすがである。

 俵坂峠の上りの途中で、兵庫の山下さんからかわされた。それまでのんびり歩いていたが、これを期に上りをどこまで走れるか俄然気合いが入る。100mごとの距離表示を目印に1kmほど、驚いたことにこの上りを1km7分を切って走っている。220km、40時間近く走っているのも関わらず、これだけ余力が残っていた。

 今振り返ったとき、鈴田峠とは言わないまでも、例えばJR松原駅エイド辺りからなぜ走りきろうとしなかったのかという自問は残る。本当に強い人は、苦しくても最後までしっかり走る。ワタシは先が見えた瞬間、安心してしまう。ここを越えない限り、真のウルトラランナーへの道は遠い。

 俵坂峠を越え、最後の155km地点のエイドに13時前に到着、去年はここで時間調整をしたのをボランティアの人に覚えられていた。浩子たちは、今年の松園着は14時半過ぎになりそうだ。さすがに1時間以上時間調整するのもばかばかしく、今年は一気に下ることにする。

 残り5kmとして、この下りなら30分以内にはゴールするだろう。遅まきながら、13時30分を切るためにペースをあげる。俵坂峠の下りが終わり、嬉野温泉街に入ってもペースを落とすことなく、13時28分、160kmに加えること70km、トータル230kmの長旅が終わった。所要時間は、スタート前の嬉野温泉での待機時間を入れて約40時間20分、我ながらよくやったと思いたい。

3 大会ののち(深い、深い余韻)

 今年も懇親会に家族を呼んだ。去年の春、当時の単身赴任先の和歌山に呼び寄せ、100マイルクラブのマラニックの打ち上げに参加させたとき、下の娘(楓)がことのほかマッちゃんに懐いていた。今回も、マッちゃんが来ると聞いて大喜び、「会いたい、会いたい」と懇親会参加と相成った。

 懇親会が始まる直前、嫁さんと1階のロビーでくつろいでいた時、嫁さんが最近の体調不良(胸が苦しいらしい)の話をし始めた、「疑いのあるのは第1に更年期障害(まだ30代後半だろう)、第2がそれ以外のなにか別の病気(そう、それが怖い)、第3が・・・子供かな(!!!)」。

 2週間ほど前に初めて症状を聞いたとき、瞬間的に思ったのが妊娠だった。しかし、女性なら、まず真っ先に思い当たる月1回のことがあるはずだ。その話がないから妊娠ではない、どこか悪いところがあるのかなと勝手に思いこみ、けっこう心配していたんだ。ちょっと椅子から転けそうになった、「すぐ検査しよう!」。

 大会翌日、午前中ほんの2時間ほどハウステンボスで遊び、薬局に寄って帰宅した。妊娠検査薬の結果は・・・、見事に陽性反応、翌14日(月)に産婦人科で正式に妊娠7週目の“ご託宣”が下り、「大村湾一周」の完走証とバレンタイン・チョコレートを併せたよりうれしいプレゼントとなった。 

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 気が早い話ですが、来年の記念大会に向けて、2つほどささやかな想いがあります。 ひとつは、10時スタートにして、思うままの「路草コース」を行き30時間ちょうどでゴールすること。来年はおそらく右回り、序盤のキリシタン記念碑や藩境籠立場などをまわった後、夜の長崎市内を散策、西海橋で朝日を浴びて、浦頭の引き揚げ公園に立ち寄って、もちろんハウステンボスまで・・・。来年も関西方面の走友は大勢来そうだし、声をかければ何人かは喜んで一緒に走ってくれるでしょう。今のうちから美味しそうな店を探しておくことにします。

 もうひとつは、日見トンネルに入る手前(来年が右回りなら出た直後)の自宅マンションの近辺で、嫁さんたちに臨時エイドを出してもらうこと。右回りならだいたい65km地点、20時から0時過ぎくらいまでの営業時間(?)なら負担も少なく、かなりのランナーをカバーできそうです。家族には、ぜひ大会に参加した後、懇親会に出てもらいたいものです。

 再来年以降は・・・、なんとかこのすばらしい大会の継続に向けて、協力していきたいと思っています。佐藤先生は、長崎県在住の方に運営母体を引き受けてほしいと言われています。単身赴任生活が長いワタシですが、自宅は長崎市内といういちおう長崎県人の端くれ、できる限りの協力をお約束して、今回はこれにてお開きということで。